文章を書いたり、小説家になろうを読んだり
ボクは趣味で文章を書いている。
こういうブログは、ふと思うのだが、原稿に着手する前のストレッチに丁度良いのではないかと思う。
文章を書くのも、運動をする前に筋肉を解すのと同様に、頭と指の筋肉を解す必要がある。
ブログに対して誠心誠意熱意を注いでいる人に対しては、フザケンナなよ、とどつかれてしまいそうになるが、そもそもの話何かを習慣づけたいという名目でブログを始めたのだ。
そんな熱心にブログ論を論じられても困ってしまうよ?
さてさて、文章を書くと、どうも粗が目立つ。
こういうブログの文章は別段気にならない。それはクオリティを気にする必要がないからだ。
何かの作品を作る際には他人の目を気にする必要がある。他人、というかアクセスしてくれた人に媚びる必要がある。ボクの作品は、お世辞にもものすごく面白いものではない。そして、そんな作品なんぞ世の中にはいっぱいある。
じゃあ、そのいっぱいある作品の中からどうやって、ボクが書いた作品を見てもらおうかと策を講じれば、自然と媚びるという選択が浮かんでくる。
破天荒な天才は、もしかしたらもっと効率が良くプライドを保持できる妙案を思いつくのかもしれないが、ボクは凡人で、無職だ。そんな妙案など思いつくわけがない。
話は変わる。
ここ最近ネット小説、主に小説家になろうというサイトで、小説を読んでいるのだが、あれは無自覚的に媚びているような気がしないでもない。
あの場所はストレスレスな小説がウケる場だ。ストレスレスとは、つまるところ読者に媚びているに他ならない。
けれど、恐らく筆者からしてみればそれを意識して書いてはない、とボクは推測している。
理由は簡単だ。
ストレスレスな小説を読んだ読者が『俺だったらもっと面白い作品を書ける』と書き始めて筆者になるパターンが多いからだ。
もちろんそんなことをすれば、同じような小説が氾濫することになるのだが、現状を見て頂ければ既にそんなことになっているとおわかりだろう。
そして、そんな小説の大半は、更新一ヶ月目を目処に徐々に更新頻度が減っていき、最終的にはエタる(業界用語で更新打ち切りを意味する)。終着点を決めていないから、どう話を持っていけばいいのかわからないのもそうだが、悲しいことに読者自身が筆者を追い込むケースもある。
どうしてストレスレスなのに文句が出るのか?
簡単だ。
ストレスレスな小説を書き続けるのは相当な忍耐力が必要となり、それと同時に平坦な展開を面白く描き切る文章力が必要だ。構想も練りに練らないと、映えないし、どうしようもない。
ちなみに、ボクもストレスレスな小説は好きだ。
安易に主人公を無双させ、美少女キャラを攻略しているのは、なんというかある種の安定感がある。
とは言え、面白いわけでもなく、途中で読むのを止める作品が大半なわけだが。
安定感があるというのは、起伏がないと同意義だ。
起伏がないと飽きがくる。
飽きが来ると読むのを止める。
それを止めるために、筆者は展開に起伏を用意する。
シンデレラ曲線、みたいなもので、主人公を貶めてみたり、そういうことをする。
すると、バッシングが投げられる。
主人公を貶めてんじゃねぇよって非難轟々。
もしかすれば、あそこは筆者が求める小説を書く場所ではなく、読者が求める小説を書く場所なのかもしれない。読者監視によるディストピア的サイト。
そんな事態にボクは憂いながら食べる昼飯は最高だ。
何だか痛々しい自己紹介
ブログを開設した。
ボクは日々の忙しないサラリーマンとは無縁の生活を送る実質的な無職だ。
親の脛を齧って生きているような人間で、それこそ食費や、携帯代を自分で出しているが、自立しているとは思っていないし、それで自立していると思っている人間は恐らく阿呆か馬鹿だ。
ボクは寄生虫のような人間であり、そう言った愚痴を淡々と呟くものになってしまうかもしれない。
これからのこのブログの基本方針は『日記』だ。
エッセイを書けるほどに人生経験が豊富ではなく、何かのノウハウを誰かに伝えるほどに聡明じゃないボクが書くものなど、それこそ徒然草から文学性と芸術性を引っこ抜いたかのような雑文に他ならない。
古典文学でもなく、読む価値さえないかもしれない。
とは言え、きっと余程の物好きの人間であれば、ふと目についたこの文章を読んでくれるかもしれない。
そして、あわよくばボクの懐が潤うかもしれない。
『かもしれない』で始めた見切り発車の、グズ野郎が書く駄文を楽しんで頂きたい。
ボクは所謂世間一般で言うギャグセンスはないとは思うけれども、それはそれとしてエンターテイメントなるものは理解できるはずだ。
(理解できている人間が愚痴をたらたらと垂れ流す文章を書くはずがないという問題からは視線を外して頂きたい)
取り敢えず、気が済んだので今日はここまで。